2009年10月17日土曜日

菅家さんの気持ち

栃木県足利市で保育園に通う女児(当時4歳)が殺害された足利事件で、17年半ぶりに釈放された菅家利和さん(63)が16日、東京都内で毎日新聞の単独インタビューに応じた。宇都宮地裁で21日に始まる再審公判を控え「裁判では『菅家さん』と呼んでほしい。単に『無罪』では困る。何十、何百といる中か ら、どうして自分が犯人として選ばれたのか知りたい」と冤罪(えんざい)の原因究明を求めた。

・・・中略・・・


 現在の栃木県警本部長や宇都宮地検検事正らの謝罪に理解を示しながらも「代理では嫌だ。(取り調べをした捜査員や判決を出した裁判官ら)本人が謝ってく れなきゃ勘弁しない」と険しい表情を見せた。再審に向けて「すぐの無罪判決は求めない。17年半も苦しめておいて。裁判で解明してもらわなきゃ困る」とし て、当時の捜査関係者らが出廷したうえでの原因究明を求めた。

・・・毎日新聞より引用。


この、菅家さんの言い分、私に言わせたら「あたりまえ」でしかありません。
「あたりまえ」のことをわざわざ菅家さんが言わなければならないくらい、日本の刑事機構というものは膿がたまりきってるんですねぇ orz

菅家さん曰く「本人が謝ってく れなきゃ勘弁しない」・・・
これ、あたりまえですが、間違いなく彼らは謝りません。

法律がどうあれ「自分の過ちは自分で責任を取る」・・・それが社会のルールのはず。
ところが公務員とはまか不思議なもの。

国家賠償法第1条によって、公務員の責任とは、
・・・国または公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意または過失によっ て違法に他人に損害を加えたときは、国また公共団体に賠償義務が生ずる・・・
このように規定されています。
被害者は公務員個人に対して賠償請求はできない・・・裏を返せば公務員個人は何やっても責任を取らなくて良いんですよ・・・って、この法律で守られてるわけです。
これって、おかしくないですか?

責任を問われないのだから、当然、本人たちは謝りません。
今回のようにここまで社会問題になってしまったもんだから、現時点での警察や検察の代表者が、一応、「謝る」という形は取るわけですが、彼ら代表者は職務だから「謝ってる」だけのこと。
そこに本当の意味での謝罪の心があるかといえば、かなり疑わしいのではないでしょうか?
報道で見る限り、「俺がやったことぢゃ無いけど、責任者なんで一応謝ってるだけ」・・・くらいの態度に見えてしまいます。
「土下座して涙の一つでも流せっ!」って思うのは私だけでしょうか?




菅谷さんは21日から始まる再審公判で「被告とは呼ばせない」と言っていますが、私はむしろ、その公判廷では検察官を「被告」と呼んだって良いくらいだと思います。

わかりきった無罪判決を言い渡すだけの茶番劇なんかやってるより、もっと大事なことがあるだろう?・・・私はそう思います。

まずは、このおかしな国家賠償法を改正して、違法行為をした公務員には一般人以上に重い責任を取らせるべきです。
税金で雇われてる公僕であるなら、責任は一般人以上に重くてあたりまえです。
今の時点で、実際に関わった捜査員や判決を出した裁判官らを裁けないのであれば、別件で罪を着せるのはやつらのお家芸なんですから、今度は社会のためにそのくらいやってみろ!って言いたいぐらいです。

警察や検察、裁判官の違法行為を厳しく裁ける強力な行政の仕組みが必要ではないでしょうか?

警察と暴力団はお友達?

本来、取り締まる側と取り締まられる側のはずの警察と暴力団。
たしかに表面上は敵対する関係ではありますが、どうしてどうして、彼らたちは以外と仲良しなんです。


奈良県警の捜査情報漏洩(ろうえい)事件で、元組織犯罪対策1課の警部補、大澤成光容疑者(53)=地方公務員法(守秘義務)違反容疑で逮捕=から同県天川村の前村長、車谷重高被告(51)=加重収賄罪などで起訴=の携帯電話に連絡した際の着信履歴が確認されていたことが25日、捜査関係者の話で分かった。
・・・産経ニュースより引用

元々、日常茶飯事的に癒着が蔓延しているからこそ、ちょっと調子に乗りすぎてここまでやっちゃうおばかな警察官がいるのですよねぇ・・・


・・・さて、前回お話ししました、警察署の留置場で優遇される「やくざ」のお話です。
ただし、私が知るのは20年前のことですから、現在では多少違うこともあるとは思います。


逮捕されると、通常は被疑者として警察署内の留置場に入れられることになります。
・・・取り調べのために取調室に行く
・・・検察庁への身柄送検(検事調べ)
これ以外に留置場から出されることはありません。
留置場でただじっと待つばかり、これはかなりの苦痛です。
行事と言えば、3度の食事と1日1回のわずかな運動時間(運動という名の喫煙時間に2〜3本のたばこが吸えます。それ以外喫煙は出来ません。)あとは寝るだけになります。


ところが「やくざ」さんたちのような優遇される立場の者であると、どういうわけだか留置場にいるのは寝るときだけ。
日中はほとんど留置場にはいません。
どこにいるのかと言えば、取り調べということで一日通して担当刑事と取調室にいるわけです。
実際には取り調べなど無くても、ほとんど毎日取り調べは行われます。
取り調べもないのに取調室で何をしているかというと、
たばこを吸ったり、差し入れや店屋もんを取ってもらって食事したり、家族などの外部の人間と電話させてもらったり、・・・
これを留置場用語で「めんどうみ」と言います。

もっとすごいのは「引き当たり」と言われる実地検分(犯罪が行われた場所に容疑者を立ち会わせて行う捜査)で外出して、外で食事してきたリまでするのです。
この「めんどうみ」は主に担当刑事によって日中行われますが、夜間には留置場勤務の警察官たちが、深夜に喫煙させたり、カップ麺を食べさせたり・・・ほんと、めちゃくちゃです。
ここまでは私が現実に目にした間違いのない事実のお話でした。

さて、ここからは人づてに聞いたお話です。
・・・・・その昔は、刑事に取調室で一杯飲ませてもらったり(もちろん酒です)、していたようです。
さすがに近年そういうことには厳しくなってきたので、お茶という名目で実はお酒の入ったポットを親族等に差し入れさせて、それを取調室でちびちびやってる(もちろん担当刑事は知っていて黙認です)・・・そんな裏の手を使っているようです。

もっとひどい話だと、覚醒剤事犯の容疑者に「一発打ってすっきりしろ」と・・・・・・
ちょっと信じがたいお話ですが、あながちあり得なくもないことだと私は思います。

これらの真偽は正直わかりかねますが、私は実際にこういう話を複数の人間から数多く聞いていますので、根も葉もないことだとは思えません。



それにしても、犯罪を取り締まるのがお仕事の警察官です。
法的にどうこう言う前に、やって良いこと悪いこと・・・分からないわけ無いと思うのですが、長年の風潮になってしまっているんでしょうねぇ・・・・・
政権も変わったことだし、そろそろ腐りきった体質を正そうとする勇気ある人が出てきても良いと思うのですが・・・・・無理なのでしょうか?

2009年10月12日月曜日

なぜ、やってもいない罪を自白してしまうのか?

先日の足利事件でも、取り調べの録音テープを開示しなさいと菅家さんの弁護人が検察に要求したようですが、検察はしぶしぶながらマスコミには公表しないと言う条件付きで菅家さんご本人に提出ということになりました。

この辺のいきさつでも、他人の人生を奪っておきながら、それでも
・・・間違いを認めない、正そうともしない・・・
傲慢極まりない検察は相変わらず健在ですねぇ・・・・・困ったもんです・・・・・


さて今回の本題に入りますが・・・・
なぜやってもいないことを自白してしまうのだろうか?・・・犯罪とは無縁の一般市民はこのように不思議に思うのではないかと思います。

結論から言えば、それはある種の「拷問」によるものです。

戦前までは犯人を自白させるための拷問が当たり前のように行われていたようです。
もちろん現在は、憲法でも国際条約でも拷問は厳しく禁止されていますので、取り調べの際に拷問を受けると言うことはまずあり得ない?はずです。
ただし、それは肉体的な拷問に限ってのことです。

・・・・・拷問(ごうもん)とは被害者の自由を奪った上で肉体的・精神的に痛めつけることにより、加害者の要求に従うように強要する事。特に被害者の持つ情報を自白させる目的で行われることが多い。・・・・・Wikipediaより

これにあるように、拷問は肉体的な拷問に限ったことではありません。
精神的拷問も立派な拷問であるというわけですが、この精神的拷問の定義ほど曖昧なものもありません。

受け手によってまったく受け止め方が違うということが、精神的拷問を曖昧にしてしまう最大の原因だからなのでしょう。
しかし、私の経験では、逮捕から刑の確定までの間、日々ひどい精神的拷問を受けていたと断言できます。

逮捕されること自体、それを平常心で受け止められる人はまずいないであろうし、先行きが見えないことの恐怖心は言葉に出来ないほどの不安です。
それらを別にしても、警察・検察において絶え間ない精神的苦痛を与え続けられます。

それらは日常的にあまりにもたくさんありますので、追って書いていこうと思いますが、今回は警察署でのことを書いてみます。

警察官は人を見る・・・そういう話をとあるブログに書き込んでいらっしゃる方がいましたが、まさにそのとおりです。
逮捕されると、その後起訴となる者は少なくても20日間程度、長いと数ヶ月に及び警察署の留置場に拘留されます。
その間、留置場が生活の場となるわけですが、留置される人によって待遇は天地ほどの差があるのです。

留置場でもっとも優遇されるのはいわゆる「やくざ」です。
それが大きな組織の幹部だったりすると、警察官たちの気遣いは異常なほどです。
犯罪組織の被疑者を警察が優遇するとは、なんともおかしな話ですよね?
そのほか優遇されるのは、大量の覚醒剤や拳銃などの犯罪関連です。
これは警察官の手柄の問題だと安易に想像できます。

逆に冷遇されるのは・・・・・
たいした手柄にはならない「こそ泥」や「痴漢」といった比較的軽度の犯罪者。
そして問題なのは、自分たちの思いどおりに自供しない「事件を否認する」ような被疑者なのです。
それは、いわゆる冤罪の対象となってしまう人たちが含まれます。
こういう人たちは冷遇されるどころか、とことん嫌がらせを受けることになります。

どんな嫌がらせを受けるのかというと・・・・・
留置場から全く出してもらえない。(”干される”という言い方をします)
運動時間(そういう名の喫煙時間です)に喫煙ではなく本当に運動をさせられる(”これは運動時間なんだから”と、喫煙させてもらえないということです)
担当刑事に一切無視される(”おまえの自白以外に用は無い”とまで言われる)
等々・・・・
彼らは暴力以外のあらゆる手段で嫌がらせをしてくるわけですから、自由を奪われ追い詰められた身とすれば、「彼らの言いなりになって認めてしまえば楽になれる」、と考えてしまうのは自然の流れでしょう。・・・・・



今回はこのへんでやめておきますが、彼らのやり口はまだまだ序の口しかお話しできていません。
続きは追って書いていきますので、全部読んでいただけたら、なぜ自白してしまうのか、良くお分かりいただけることと思います。

ところで、
逆に、優遇される人に彼らはどんな優遇をしてくれるのかと言いますと・・・・・
これはかなり脇道にそれてしまいますので、今回は割愛させていただきます。
ただ、かなりおもしろい話ではありますので、後日余談として書かせていただこうと思っています。

2009年10月11日日曜日

冤罪とは違いますが・・・光市母子殺害の元少年実名本のこと

山口県光市母子殺害事件の被告の元少年(28)=死刑判決を受け上告中=を実名で記し、出版差し止めを求める仮処分を申し立てられた単行本が7日、東京都内の一部書店で発売された。発売を見合わせる予定の書店もあり、対応が分かれた。
・・・・・サンスポより抜粋。

実名報道の是非はいくらでもありますので、ここではそれは置いておきます。
ただし、ここまで伏せたところで今日のネット社会、ちょっと検索すれば少年の実名はおろか写真まで大量に出てきてしまうのに、いまさらなにを言っているの?・・・というのが私個人の感想ではあります。

この実名本の出版に際して、あれ?っと思ったこと・・・
最初に申しあげておきますが、当然ながら私はこの本を読んでおりません。
ですので、私の感想は的外れかもしれないことを前提で書かせていただきます。

本の内容を確かめもせずに乱暴ではありますが、私があれ?と思ったのは、この本の題名。
「A(実名)君を殺して何になる」
この題名に限って言えば、それ違うでしょ?・・・それが私の感想です。
本の写真では帯に「死刑か無期懲役か。」とあるので、題名から判断する限り、
「死刑にすることないでしょ?」
・・・というのがこの作者の言い分ではないかと思うのですが・・・

私はこの元少年を死刑にすべきだと言っているわけではありません。
そもそも私自身、死刑制度の是非をとやかく言えるほどの人間ではないと思っています。
しかし、「殺してなんになる」なら、この元少年に限らず、過去現在未来、死刑を執行された方、係争中の方、今後死刑執行が予定されてる方 ・・・その方々はどうなるの?・・・私はそう思います。
しかもそこには被害者やその遺族の存在すらありません。

罰として命を奪われるだけのことをしたからこそ、その代償としての死刑というものがあるわけで、こういうことを軽々しく本の題名にする作者の神経が私には分かりません。

冤罪が起こる構図

民主主義・法治国家・先進国・・・・・日本とはそういう国であるはずですよね?
北朝鮮やイランなどと違って独裁者が統治しているわけでもなく、正義は守られるものだし、納税等の義務を果たす限り、国家は国民を守ってくれる住みやすく安全な国であるはずの日本・・・
それなのになぜここまで冤罪が後を絶たないのでしょうか?

私が思うに一番問題なのは日本の刑事機構の不埒さです。

誰もが正義の味方であると信じる警察官や検察官。
正義を守るために彼らは国民が納めた税金にて存在しているはずなのですが、彼らの大義名分は正義であるとは言えません。彼らのお仕事は犯罪を立件させることなのです。

彼らにとって捜査とは事実を解明することではありません 。
もしも、あなたがなにかの理由でひとたび嫌疑をかけられると、日頃見慣れた交番勤務等の穏和なおまわりさんとは全く違う顔の警察官に接することとなります。
それが起訴できる事件だと判断すれば、彼らは牙をむきます。
あなたが無実であるなら当然その無実を主張することでしょう。
彼らは「それを証明しなさい」と言います。
それを真に受けて、すがる想いで無実である根拠を彼らに話してしまうと、彼らはその根拠に対して法廷でどう対応するかの対策に全力を注ぎます。
過去に露見した事実が証明しているように、時には証拠の隠匿やねつ造までするのです。
つまり、助けてくれると思っていた正義の味方であるはずの彼らに、それとは逆に自分を有罪にするための材料を与えてしまってるだけのこととなります。

また、彼らは起訴前に弁護士が介入することや、被害者に対する示談交渉を極度に嫌がります。
それは彼らにとってせっかくの事件をつぶされてしまうからです。
被害者宅に示談交渉に行ったら、「警察から示談はしないようにと言われている」と、すでに手を回されているような例はいくらでもあります。
示談という解決方法が、被害者にも加害者にも最良の解決策であるにもかかわらず、正義の味方の警察官にそう言われたら、大抵の被害者はそれに従ってしまうのではないでしょうか?

 日本の刑事裁判で無罪判決が下されるのは1パーセントにも満たないのが現実です。
これはものすごく異常なことではないでしょうか?
したがって、逮捕→拘留の後、起訴ということになれば、裁判が始まってもいないその時点で有罪確定間違いなしということになります。
味方になってくれるのは弁護士のみ、(その弁護士にもよりますが)
もし身に覚えのないことで逮捕されるようなことがあった場合、裕福な被疑者(起訴前の身分)であれば、逮捕された時点で自分の嫌疑を晴らすために私費で弁護士を雇うこともできますが、裕福でない人は起訴された後に国選弁護人の面会を待つことしかできません。
それでは後の祭り、残された救いは少しでも量刑が軽くなるのを祈るだけです。
なんとしても有罪にしてやろうとする警察・検察を合わせて数十人から数百人の取調官に対して、しょぼくれた国選弁護人たった一人の援護では勝負になるわけがありません。

ほとんどの刑事裁判では、法廷検事と呼ばれる訴訟専門の検察官が同じ法廷を終始担当しています。
したがって裁判官と検察官は、顔見知りの馴れ合いもいいところ、
どこの地方でも裁判所と検察庁はお隣どうし、場所によっては同一庁舎内または同一敷地内に裁判所と検察が同居しており、いわゆる仲良しのご近所さんなのです。
裁判官は検察官の求刑どおりに判決を出しておけば間違いないだろう・・・と考えているはず、
公務員特有の「責任を取らされるようなことは避けたい」そんなお役所思考で検事のいいなりになって有罪判決を下すのでしょう。

「疑わしきは罰せず」、あるいは、「疑わしきは被告人の利益に」・・・そういう大原則があるにもかかわらず、情況証拠だけで有罪判決が量産されているのが現実です。
彼ら司法関係者は、「疑わしいけど直接証拠が無いので罰しません」・・・もし、そういうことになってしまうと、おそらくこの国の治安が低下するとでも思っているのでしょう。

最近の度重なる冤罪の露見に、無実の人間の人生を奪っておきながら、わずかな金額の国家賠償で彼らは責任を取れるとでも思っているのでしょうか?
国家賠償といえど、そもそもそれは税金です。
彼らの懐は少しも痛まない・・・それでいいのでしょうか?
不当な捜査を行った取調官には、例外なく特別公務員職権濫用罪(刑法194条)を適用し、刑事処分にするべきです。
証拠の隠匿だのねつ造だの、どう考えても犯罪であるとしか言いようがありません。
親方である日の丸が責任取ってくれちゃうから、公務員が無責任な仕事に終始するのは当たり前、冤罪がなくなるわけがありません。

今後もまだまだ冤罪は発覚していくと思います。
どこまでも間違いを認めない公務員どものやることですから、彼らはいずれ、発覚しそうな冤罪の事実をもみ消すようなことまでやりかねない気がしています。


□ 他所ブログに投稿した文面を加筆訂正して掲載しました。

ごあいさつ

私が 冤罪で刑事処分を受けた当時は、「こんなことは絶対に許さない」・・・そんな強い気持ちがありました。
しかし、逮捕から起訴、そして服役・・・この代償は計り知れないほど大きな消耗をもたらし、それは私自身にも家族にも重くのしかかってきました。
社会復帰後、失ったものがあまりにも大きすぎたことから、以前の強い気持ちは自然と失せていきました。・・・これで終わらせたい、忘れよう。・・・疲れ果てた当時の私は、口には出さずともそんな想いだけでした。

それから20年以上経った、とある秋の夜長に、偶然にもあるブログが私の目にとまり、私はそのブログを夢中になって読みふけっていました。
読めば読むほど、忘れようとしていた過去の悔しさが激しく噴出し、いてもたってもいられなくなって、自分の思いを長文にして投稿させていただきました。
翌朝、ご親切にも丁寧な返信にて、「是非ともご自身のブログを立ち上げ、その悔しさを広く世間に訴えていかれる事をおすすめします。」とのアドバイス頂いた次第です。

過去にケリをつけよう・・・いまはそんな気分です。
どこまで出来るか分かりません。いまさら過去が変えられるとも思ってはいません。
でも、「けして意味のないことではない」そう信じてこのブログを始めてみようと思っています。